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国内からの弔辞

日比将人

 「4月から国舞(国立舞鶴病院)ですか?私も昭和50年の一年間(卒後4年目の研修)を国舞で過ごしました。思い出の地です。3月中は先生に会えないと思いますので、夏か、冬の蟹の季節にでも訪れたいと思います。その頃の思い出を肴に一杯やりましょう。」

 国立舞鶴病院(現舞鶴医療センター)へ赴任が決まった僕に荻田先生からいただいた最後のメールです。体調を崩されたとお聞きしていましたが、舞鶴で蟹鍋を囲んで一杯できることを信じていました。しかし、病院を移ってようやく慣れて来た頃、突然の訃報が飛び込みました。その日の前日は当直でなかなか寝られず、深夜3時ごろふと思いつき荻田先生に近況報告のメールをしました。ところが、その日に荻田先生が亡くなったと連絡がはいったのです。これが虫の知らせというやつでしょうか。荻田先生が亡くなったショックと、すぐに復帰するとはおっしゃっていたものの、どうして押しかけてでもお見舞いに行かなかったのだろうという自責の念でいっぱいでしたが、今思えば、転勤前の僕に心配かけないようにと気を遣っておられたのですね。本当に最後の最後まで荻田先生らしいままでした。

 リンパ管腫というと教科書にも詳しく載っておらず、研修医になりたての頃の僕になかなかピンときませんでした。しかし荻田先生と一緒に入院患者さんを診療したり、リンパ管腫の患者さんたちのホームページを閲覧したりしていると、実に多くの患者さんが全国いや全世界に存在し、荻田先生は大変ご高名な先生であることを知りました。身近にこんな偉大な先生がおられたのに、僕がリンパ管腫の入院患者さんの担当となることは少なく非常に残念でしたが、時々先生の外来に顔を出して、外来患者さんの診療のお手伝いをさせていただきました。その中で実に多くのことを学びました。それはリンパ管腫に関するものから、医者としての姿勢までさまざまです。

 荻田先生とは、仕事以外でも仲良くさせていただきました。夏には海へ海水浴や潮干狩りへいったり、冬には一緒にスキーに行ったりしました。潮干狩り場での先生は暑い中少しも休憩せず、黙々と砂を掘ってアサリを捕っていました。潮が満ちて潮干狩りが終わる頃には捕ったアサリの量はダントツで多かったのを覚えています。スキーに行ったときはこんなことがありました。その日は深夜に出発して早朝に到着。前日の睡眠不足と運転の疲れで車中で寝ていると、「日比先生!ゲレンデが開いたし先に行くで!!」と一人でゲレンデに行ってしまいました。これもまた休まずにひたすら滑っている姿を後から見付けて驚いたものです。本当に何事にも一生懸命で手抜きしない方です。

 荻田先生が亡くなる数ヶ月前にいただいたメールがあります。今思えばいつかは仕事に復帰すると言い張っていた先生が、自分の先が短いことを伝えたかったのかもしれませんが・・・。

「私たちの世代は、いずれ近くリタイアしてゆくので、私の経験や技術そして幾ばくかの知識を誰かに受け継いで欲しいと思ってますが、今の人達は、あくまでも手術をすることで病気を治そうとする根っからの手術屋さんが多く、局注療法のような内科的で、根気と忍耐のいる方法が好きでは無いように感じています。」

 それまで外科医を目指して手術にばかり目がいき、勤務先の病院で手術ができないことを悩んだことが馬鹿らしく思えました。もちろん手術が必要な症例もあるし、その方が外科医には魅力かもしれません。しかし、荻田先生はそれぞれの患者さんにあった治療を、その患者さんのことだけを考えて続けてこられました。大学病院ですからいろいろ融通が効かないことも多かったでしょう。ただ患者さんのために。簡単なようで難しいことです。

 潮干狩りでもスキーでも仕事でも一緒です。何でも一生懸命やりなさい。遊びで一生懸命になれないものが仕事で一生懸命になれるのか?それが患者さんのためになるのだったら、面倒なことでも、どんなに時間がかかっても、自分の信念を貫きなさい。様々な事を通して、僕に医者としての姿勢を教えてくれました。

 現在僕は京都を離れ、愛知県に転勤となりましたが、荻田先生に教わった技術と知識と医者としての姿勢はどこに行っても忘れません。リンパ管腫の診療にも微力ながら一生関っていきたいと思います。遠くから見守っていてください。今年もまた海へ山へ行きましょう。

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