国内からの弔辞
こういった機会を頂戴し、大変に光栄なのですが、想いがあふれてうまく言葉に出来ません。つたない文ですが、少しずつ思い出を言葉に出来ればと思います。
1992年、私が20歳の時、新聞でカルロスちゃんの記事を見かけたのが出逢いでした。私はその記事ではじめて、自分以外にリンパ管腫の患者さんが実際にいることを知りました。そしてその後、トリアス祭での講演を、私の病気判明以来ずっと診て下さっている主治医が聞きに行き、薦めてくださったのを縁に、荻田先生のもとへ通うことになったのです。はじめてお会いした日は、物静かな先生だなぁとの印象だったのですが…、いつからでしょうか?冗談を言っては笑ったり、プライベートな事など色々と相談に乗っていただいたりと、恐れ多くも懇意にして頂きました。
パソコン好きな先生は、当時興味を持っていた私にも是非にと勧めてくださり、購入から操作など色々と教えてくださるだけでなく、Eメールのやりとりもさせて頂きました。何十通と交わしたメールを今読み返してみると、なんと病気以外の内容がほとんどなのです。毎日お忙しいのに2日と空けず丁寧な返信を下さいました。
私が旅行好きなのもあって、よく旅の話もしていただきました。しかし先生はお忙しい身、旅といっても学会や治療など、お仕事でのお出掛けがほとんどでしたが…。海外へ行かれた折には、その地のこと、人々の暮らし、歴史的背景と様々なお話をして下さいました。なかでも特に印象深かったのがマヤの話でした。
「遺跡に描かれたマヤの人々の顔付きって何か不気味とは思いませんか?メリダ市にはマヤの末裔がたくさん生き延びています。そしてマヤ語を今も話しています。遺跡の人々とやはり似た顔付きをしています。話しているとそれなりに人なつっこいのですが、絵にするとやはり遺跡の人のような顔付きを思わせます。…今のマヤの人々はスペイン人に征服され、抑圧された民族です。それでも民族の言葉・習慣・文化を守りながら子々孫々それを継承しています。そんな姿に心打たれるのでしょう。人としてのDNAは共通なのに民族によって微妙な差異がでるのが本当に不思議です。その辺のことはまた私が考えてきていることを話してみたいと…。」
この話は途中までしか聞けていないこともあり、心残りです。
私が長崎に旅行へ行き、原爆資料館を訪れたことを話したときには、長崎は何故雨が多いのでしょうね?地形が大きな原因をなしているように思うのですが、気象予報士ならこの事をきっと上手に説明することでしょう。でも、そんな科学的な説明より、原爆で被害にあった痛ましい犠牲者をきっと今も天が悲しんで涙をながすから、と説明する方がいいのかも知れません。…原爆は戦争終結のために投下する必要性はなかったのに、政治的な意味合いや実験的な意味合いで日本に投下されました。イタリアやドイツには投下されませんでした。肉体に受けた傷は目に見えますが、民族に対する侮辱に我々はあまりに鈍感なように思います。外国に行ったときに時々質問されます。『日本人は今でも米国を嫌っていますか(嫌っているでしょうね)?』今の日本の現状をみると私は返答に困ってしまいます。焦土と化した街並みは復興しても、民族の心は様変わりしています。被爆者の遺伝子に刻まれた傷は時限爆弾となって子々孫々その傷を伝えていくことでしょう。…昔の医師は患者さんと色々なことを話し合ったそうですが、今は、特に大学病院などにいると、そういった人間的なつき合いが出来ていないなあ~とつくづく思います。E-メールというのはそういった意味で大変有用と思います。」
また毎年苦しまれていたご様子の鼻アレルギーについては、「小児外科には濃いアレルゲンがあるようで、毎外来日は苦労しています。…アレルギーの元は、『せわしない日常』かもしれません。いつまでも悠久の時間の中に身を置いておきたいのに、現実への抵抗かも…。私はそれでも"聞き分けのある子供"を演じる努力をしています」とも話されました。
また、本題である病気の話に関連して、医療現場について教えていただく機会にも多く恵まれました。これは薬学を志す私にとって大変勉強になることばかりでした。
結婚・妊娠・出産と、人生最大の岐路で不安や悩みを抱える私の背中をやさしくポンと押して下さったのも先生でした。結婚のときは、「花嫁の父親の心境」と言いながら、式当日は温かいメッセージを届けて下さいました。その後、子供に恵まれたのですが、妊娠中や出産の時には、言葉では言い尽くせないくらいお世話になりました。先生の診られるたくさんの患者さんの中でも、妊娠・出産を経験するのは私が初めてということでしたが、検診のたびエコー写真を見て、楽しみにして下さっていました。
うまくいけば先生のお誕生日と同じ6月20日に出産できる予定だったのですが、誘発入院したもののうまく進まず結局、翌日の出産となりました。そして、これは私も最近聞いた話なのですが…。結局帝王切開となり、手術室に入った頃、分娩ホールに明らかに産科関係者ではなさそうな、誰かを捜す様子の医師を見かけたと、夫が言うのです。夫は荻田先生とは2度ほど会っているだけなので確かではないけれど、きっと荻田先生だったんじゃないか、と。今となっては確かめることは出来なくなりましたが、私も荻田先生が来て下さったと信じています。出産のちょうど1年前に親不知の抜歯をしたのですが、リンパ管腫で安全な抜歯が困難なため手術となった時、最初から最後まで長時間になったにも関わらず立ち会ってくださった、そんな優しい先生ですから…。
出産後はすぐ病室に来て、一緒に子供を見てくださいました。その頃はまだ新生児室の中だったのですが、その後、子供を連れて受診に伺うと必ず最後に「さ、抱っこさせて!」と言って抱いてくださり、いつも大変にかわいがって頂きました。
先生がいらっしゃらなければ、こうして暉人(あきと)に会うことはなかったかもしれません。「今は様々な育児本があります。参考にはなるが、全てがあてはまる訳ではありません。その子なりの成長をしっかり見つめて育てられる、たくましい母親になって!」産後すぐに頂いたメールです。今、毎日この言葉を励みに子育てに奮闘中です。この子が大きくなったら必ず、先生の話を聞かせようと思っています。
先生に抱っこしてもらったことは、彼は憶えてはいないでしょう。しかし私の心には、彼を抱っこする先生の姿がはっきりと残っています。実直で、優しくて、こんなに素敵な、お母さんにとってとても大切な人がいたことを、その記憶とともに将来、彼に話したいのです。そして、出逢いの素晴らしさを知ってもらいたいのです。
そして、私だけでなく多くの患者さんが先生とを慕い心から頼りにされていることが、身をもってわかります。「手のかかる患者さん」と、私はよく先生に言われました。本当に何から何までお世話になり、手を煩わせっぱなしの患者でした。病気治療の先生としてだけでなく、同じ医療の道を導いて下さった大先輩であり恩師として、このお世話になったお返しは、先生にではなく、他に悩む多くの人達にしなければなりません。先生ならきっとそうおっしゃるでしょう。私は、微力でも自分の出来ることから何か恩返しをしていこうと思います。
私はリンパ管腫とともに生まれました。そして一緒に育って大人になりました。幸いなことに母にもなれました。リンパ管腫を診続けて下さった先生方は私にとって親とは別に、ある意味で親以上に大切に思う人です。
その先生が、荻田先生で本当によかった。先生に出逢えて本当によかったです。先生に教えていただいた全てのことが、私の生きていく力となり、大切な思い出となっています。
以前から頼まれていた、先生の活動へのお手伝いのことや、私のこれからの治療のことなど、今となってはお話できないことが多くあり、残念でなりませんが…。でも、今はただ、感謝の気持でいっぱいです。
荻田先生、本当にありがとうございました。
